人々の信じる心がレーの町に集う特別な日
寒空の中の集会
気温が上がってきたとはいえ、曇りの日は、まだまだ寒い2月のレー。大切な説法を心の中に入れるため、人々は町の中の寺に集まっていた。
自由とは
お寺は普段から子どもたちの遊び場。大人たちが真剣な表情で座っているのとは対照的に、子どもたちは鬼ごっこをしていた。だが、彼ら彼女らにも、あちらに座る日は確実にやってくるのだ。
待つ
読経の声が聞こえてくるまで、ただじっと待つ。多くの人がマニ車を廻してお経を唱えていた。
思いのかたまり
王宮は、何度この光景を目にしてきたのだろう。変わることのない信仰心のかたまりのような強さが場内に満ちていた。
読経の時
ほどなくして、お経が聞こえていた。みんな真剣に耳を傾ける。祈る。念が集い、天に昇る。
一体化の構図
ある者は前を向き、ある者は瞑想にふけり、ある者は無に帰す。
アクシャ・マーラー
お経を唱える度に、ひとつひとつ数珠を爪繰っていく。もう身に染みている動作だ。
概念
子どもたちが自由に走り回る。「お坊さんに近付いてみよう」。ただ、それだけなのかもしれない。だが、それが正しいとも、間違えているとも、誰も考えていない。
その一方で
相変わらず、おじさん、おばさん、お爺さん、お婆さんは読経に聞き入っている。
犬も人も
飼い犬も飼い主に習って、お坊さんを見つめていた。仏教は、生命体に寛容だからかもしれない。
思わぬ合奏
ふいに、カラカラと乾いた音がした。音がした方へ行ってみると、子どもがマニ車を回していた。読経の湿度感と、マニ車の乾燥感が、不思議な音列を奏でていた。
発想のチカラ
やはり、子どもたちは遊ぶ。物質的な遊び道具なんてないのだが、木に自由に腰掛けたり、段差を利用して遊んでいた。
静と動
人が思い描く魂と自然現象との融合という小さな宇宙の集合体がゴンパの中に展開されているのだ。
嵐のような襲来
満足して外に出ようとしたら、それを許さない子どもたちが襲来。ジャパニのお兄さん写真撮ってよ。撮らないと通してあげないよ!この世は一筋縄ではいかないのだ。
特製のラー油を見つめながら
子どもたちが満足するまでお付き合いして、いつものレストランへ行くと、ロブサーンがご当地ラー油を作っていた。これこれ、これがないと味が締まらないのです。
人参を切りながら
そりゃ、みんなカメラは珍しいと思うよ。ちょっと前の自分たちとか、変な顔した記録が残るってスペシャルなことだよ!ロブサーンは日本人旅行者の素朴な疑問に、テントゥク用の人参を切りながら答えてくれた。この切り方は、めでたいときのデコレーションでやっているんだ、と鼻高々。
マスターの独り言
あと小一時間かなぁ。ロブサーンが特製のご当地ラー油を作りながら独り言をつぶやいた。
あ!写真撮ってもらおうよ
今はランチタイムとディナータイムの間の休み時間。レストランの屋上に上ると、若いスタッフたちが遊んでいた。「写真撮って撮って!」。歴史は繰り返す。そして、また少年たち専属のカメラマンとなるのだった。
ブラ〜ン
写真のためなら、どんなことでもやっちゃうよ〜。
真っ赤な味の決め手
撮影タイムを終えてレストランの厨房へ降りたら、もう特製ラー油ができあがっていた。明日からこのラー油でいろんな物を食べるんだなぁ。
インドの田舎の一例
ロブサーンと近くのレストランで早めの夕ご飯を食べた。どうやら自分の作る賄いばかりでは飽きてくるので、たまに外食するのだという。あのレストランの若い子たちは、一人はネパールで一人はビハールから来ているんだ。おれもマイソール経由のアムド出身だけどな。そう言って、ロブサーンは笑った。
人と出店の山
しこたまロブサーンと青年スタッフと粗悪な酒を飲んで次の日、町は一変していた。
出店は祭
蚤の市、ガラクタ市、いろんな言い方はあるが、ラダックの人たちの様子がいつもと違う!
非日常の風景
いつもはおっちゃん達がナンを焼いている小屋も、なぜだか女たちがソワソワと働いていた。そして、いつものおっちゃんはいない。
見たこともない人出
人がたくさん岩山に張り付いていた。王宮で何かが行われているようだ。
王宮への道
どうやら遅い出発だったのか、登る人はチラホラとしかいない。何やら上から音が聞こえて来た。
生まれ育ち
やっとの思いで登りきった。お母さんは子どもをおぶっての登り道。大変だなぁと思ったけれども、息切れなどは一切しておらず、住み慣れた気候風土が身に染みていることが伺えた。
寒さをはねのけて
もう人はいっぱい。熱気に包まれた中、シャーン、シャーンと音が響き渡った。
仮面舞踏inレー
ぎゅうぎゅうには違いなかったけれども、意外と通路は細く確保されていた。そこを伝ってよく見える場所まで移動した。レーの仮面舞踏だ。
よく見えるわい
こんな小さな場所にもたくさんの人が。しっかりと今年の仮面舞踏を目に焼き付ける。
う〜んよく見えるなぁ
煩悩を断ち切ろうとしていても、お坊さんも人の子。よく見えるこの席がお気に入りのようだ。
誘われるように
まだ仮面舞踏は途中だったのだが、ふと王宮の中はどうなっているのだろう?と思い、中へ入ってみた。
信心と自由
誰もいないかと思ったら、拝む人がたくさんいて、けっこう自由だなぁと面食らってしまった。
自由と行動と信心
溢れるほどの信心があるから、その思いに突き動かされる行動はすべて許されるのだろう。ルールでガチガチの社会では理解できない包容力。
仏画の彩度
その様子を見守っていたのが仏画。薄暗いことが多い空間だけれども、目に鮮やかな色合いがちょうど良い彩度になって飛び込んでくる。
一人だけの空間
とはいえ、いつもより人が明らかに少ない時間帯も確かにあった。祭の音を聞きながら僕も仏と向かい合う。
音を追いかけて
さらに標高が高いところにゴンパがある。祭の音が上空に溶けて行くのを追うように、そのゴンパへ行ってみることにした。
静かな無の空間へ
こちらにはあまり参拝者はいなかった。仏像と一人で向き合うこととなった。やさしい目線が心の中にまで入り込んでくる。
新しい発見
仏像の足下には真新しいカタが掛けられていた。それにしても仏像の爪の色はこんななんだ…と初めて知って素直に驚いた。人生、知らないことの連続なのだ。
鏡のような
そしてまた、壁の仏画がこちらを見ていた。監視とは違う見守る目。「爪の色はこんななのか」と思った、そのとき、その場所の自分自身が跳ね返って来ただけだった。
生命体の讃歌
仏像の近くには、新しい油が満たされたランプが輝いていた。光の揺れはこの世のあり方。そのとき、世界の無情とは真逆に、美しいと思えた。
宇宙の輪
少し歩くと千手観音像と出会った。ミーハーかもしれないけれども、とても存在感があり、毎回見る度に、細部まで見とれてしまう。
空に
お坊さんが今まで座っていたのだろうか。温かみを感じる空間に一礼した。
雰囲気
お坊さんが座っていたと思える場所を見てみると、仏具がそのまま置き去りにされていた。手に取って見たかったが、そんな煩悩を祓うかのようなオーラが発せられていた。もちろん、眺めるだけにしておいた。
人気店の宿命
山を下りて、ロブサーンのレストランの下に人気のモモ専門店がある。ちょっと覗いてみると、「今日はもう三回目」と、新しい皮を必死に作っていた。
俗世間の賑わい
メインストリートに出てみると、この町にはこんなに人がいたのか?と思えるほどの人出で、なんだか楽しくなって来た。。
人、人、人
昨日、ロブサーンと来たレストランに登って、一体どれくらいの人がいるのか確かめてみた。なんと、こんな人混みになっているとは!
人は集って生きている
通りに出て、祭りを楽しんでみた。子どものお坊さんも、今日はいろいろ許されているのか、いろんな人混みに首を突っ込んでは笑い転げている。
許されている日
出店の中には、普段は御法度の当て物やギャンブル店も数多く出店している。お祭りの期間中、男たちはお参りした後は自由。大酒を飲みながら、サイコロ賭博やトランプ賭博に興じる。
女と子どもの運試し
とはいっても、女や子どもはトランプ賭博もサイコロ賭博も、大人の男の世界で手が出せない。そこで出てくるのが数字クジ。運が良いと人気のヒンディーポップミュージシャンのCDや雑貨が当たるのだ。
両極が対等する日
日本では宝くじでお馴染みのルーレット型ダーツも発見。今日は、お参りすれば自由な素晴らしい日。聖俗入り交じった特別な日が、このドスモチェではないかとすら思える。
特別な日の夕刻
夕方、鉄火場に負けた人のトランプが地面に打ち捨てられていた。それぞれのドスモチェは今夜で終了。明日から普通の暮らしに戻る。また、来年。