一本柔道
アテネ五輪
ギリシャ/2004年
その瞬間、数秒だけ静けさがあった。柔道といえば日本のお家芸。当然、観客も多く、試合のほとんどの時間はニッポンコールに会場が包まれていたと言ってもいい。四角い試合場の中にいるのは阿武教子選手。78kg級の日本のエースだ。だが、過去二回のオリンピックは天才の名をほしいままにした姿の影もなく初戦敗退。三度目の正直ということで、この決勝の舞台に臨んでいた。
試合は序盤から相手の中国選手が優位な状態。この日は日本男子柔道のエース、井上康生選手が負けていた。会場に向かう市営バスの中でやたらと日本語が流暢なイスラエル人から「日本のイノウエ負けたネー。おれはイスラエルの選手をオウエンしにイクンダー」と言われ、旅仲間ともどもチケットを転売しようかと相談したほどの異常事態だった。阿武教子選手が有力な選手だと知ったのは、実は優勝後のこと。それまで、自分はそんな苦労人だということを知らなかった。
10分という試合時間は実は長い。常に気を張って、目に見えない押し引きを繰り返す柔道という競技は、体力的消耗も精神的消耗も驚くほど早い。実際、2階席から見ていても阿武教子選手の動きや汗が見えるほどの緊張感。ウエアの中の筋肉は相手の動きをレーダー探知機のように察知し、数グラムの差でも傾いてしまうような力のバランス合戦を司っているのだ。一進一退を繰り返す互角の攻防。そこに、我々日本応援団が声をかける。背中を押す。精一杯の声を張り上げて叫ぶ。「ニッポン!ニッポン!ニッポン!!!!!」。だが、相手は決勝まで残った選手。そうは簡単に我々を喜ばせてくれない。
そうこうしているうちに相手の方が開き直ったのか、ポイントこそリードしているものの、また相手に試合のペースを握られ始めた。こうはしていられぬ。おれたちも精一杯の声を張り上げて叫ぶ。「阿武!!!!!がんばれーーーー−!!!」。「ニッポン!」というコール以外にも、そういった独自の声を出す有志の声は時折遠くから聞こえてくる。大きなうねりのような「ニッポン!」というコールの間隙を突くような、阿武を、日本を応援する一個人の想い。たまに溢れてくる声が、さらに応援をかきたてる。「そうだ、阿武、がんばれ!おれたちが付いているんだから」。あぁ、そこにも阿武選手とシンクロしている人がいる。ほら、そこにも声を枯らせている人がいる。おれもこの会場にいる限り、力の限り叫ぼう。ニッポンでも、阿武でもよい。この力の集合体を大きくするんだ。そして、おれたちの代表の阿武選手に力を100%、いや120%の実力を出してもらうんだ。そういう気持ちの中でおれは「シッカリ!」とか「ニッポン!」とかランダムに繰り返していた。何度も言うが、柔道の10分という時間は長い。ここまで、たった4分間。動きの量以上に密度の濃い駆け引きが延々と続きそうな気配が場を支配し始めた。
何度かのやり取りの後、相手の引く手と阿武の引く手がまったく同時になったとき、完全にお互いの動きが止まった。力のバランスが五分五分になったのだ。同時にそれまでの「ニッポン!!!ニッポン!!!!!」というコールがやんだ。ときおり聞こえてきた個人的な阿武への勇気づけの声もこのときばかりは聞こえない。超高層ビルの狭間のような、本当に数秒間だけの時間、アテネの柔道会場は無音状態になった。水を打ったように静まり返る会場。目の前には固まっている二人の最高峰の柔道選手。
一瞬が長く長く感じる膠着状態。その時空を切り裂いたのは初老の男性の声だった。ただ一人、透き通った透明な声で「一本柔道ーーーーーーーーーっ!!!!!」と叫んだのだ。それはどこまでも突き抜けていくような、日本柔道の黄金期を知る者の叫びだった。柔道王国、日本が背水の陣となり自然に出た魂の叫びだったのだ。音の大小ではない。会場の日本人もブラウン管の前の日本人も、その声は聞くものではなく感じるものだったのだ。瞬間、阿武選手の体が相手よりも一瞬だけ早く反応した。そして対戦相手の劉霞選手の体は宙を舞った。一閃。決まり手の袖釣り込み腰は、阿武選手が二度の初戦敗退を乗り越えた正真正銘の三度目の正直だった。
阿武選手に老人の声は届いたのかどうか分からない。しかし、感じたはずなのだ。みんなの思いを代表したあの声を。おれたちは阿武選手とともに表彰式で胸を張って泣いた。挫折、誇り、希望、夢、アテネという舞台、感謝、いろんな魂の象徴が壇上に輝く最高の日の丸だった。大きく雄大に掲げられた日の丸越しに阿武は彼女だけが知る思いを抱いて泣いたのだった。
一本柔道
了
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